ここでは、外国為替に関する解説書や外国為替に携わっている人たちが著述した古今の 書籍を、筆者の書評を添えて紹介します。 ただし、筆者の評価や書評は、あくまで一読者の個人的な意見であって、むやみにその 購入を勧誘するものでも、その内容を誹謗・中傷するものでもありませんので、 あらかじめご了承ください。 (評価について)
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タイトル |
スピードの経済 |
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総合評価 |
★★★★ |
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著者 |
伊藤洋一 |
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価格 |
★★★★★ |
適量度 |
★★★★★ |
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出版社 |
日本経済新聞社 |
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役立つ度 |
★★★ |
読み物度 |
★★ |
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価格 |
1,600円(税込み) |
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オリジナリティ |
★★★★ |
読みやすさ |
★★★★★ |
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読んだ版 |
1997年7月発行第2版 |
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今どき度 |
★★★★★ |
長寿度 |
★★★ |
率直に言って、優れた本である。著者は現在住友信託銀行の総合資金部に勤務されておられるが、マスコミ出身ということもあって、内容は金融に限らず、世界的に起きている経済・社会の潮流を的確に捉えて分析している。この本は昨年7月に出版されたが、その後のアジア通貨不安が起きたこともあって、中盤以降のアングロサクソンの優位性に触れた部分については、その分析の的確さが現実に立証された形となっている。
また、著者はインターネット上に自分のホームページをも開設しており、コンピューターや情報通信についても造詣が深いこともあって、若干気になる部分があるものの、前半のデジタルタル・エコノミーの記述は、実体験による裏付けを基にした内容で説得力がある。
後半は、まさに圧巻である。現状と今後の分析を記述している中盤まで読み進めていくと、現在の日本のあり方に悲観的な見方が強まらざるを得ないが、後半ではこれに反論すると共に、日本が今後の潮流たる「スピードの経済」に対応していくために必要な政策提言がなされており、逆に希望を抱かせる内容となっている。21世紀に向けての経済・社会の変化を見る上では必読の書と言えるだろう。
まず、総評でも触れたように、一部の点で気になることがある。
・「絵や音楽を創造・処理するにせよ「操作性」という点ではアナログに比べて「デジタル」の優秀さは数段上回る。」(P.21)
第1章の「情報処理のデジタル化の拡大」の所の記述であるが、絵を描くなら、今の描画ソフトを使うより手で描いた方がきれいにできる。ただ、「デジタル・エコノミーの出現」の箇所で著者が述べているように、加工性が高いので修正等が楽なだけだ。デジタル技術の進展が、かつての産業革命のように芸術の分野に影響を与え、何らかの新しいジャンルが誕生する可能性もある。しかし、操作性の高いデジタル技術を使えば、必ずしも傑作を生み出すわけではない。操作性が高いことは、既製の作品の加工、プリント、再生といった処理の上では便利だが、創造すること自体は、アナログかデジタルかはさほど関係ないように思うのである。逆に、デジタル処理の高い操作性と複写機能が創造者の著作権を脅かしたり、他の作品の安易なコピーが氾濫する危険にも考慮すべきであろう。映画でデシタル処理が多くなったのは、操作性が高いことはだけではなく、技術の向上でデジタル処理の方がより優れた映像効果を出せるようになったことと、そのためのコストの点で採算が見込めるようになったことの方が大きいと思うし、映像にCG等のデジタル技術を使うこと自体がハリウッドのブームだったこともあるだろう。最近では、CGを使ってはいるが、中身の薄い映画も多いことへの反発も出ている。著者は、芸術の世界にもデジタル技術が浸透してきていることを言いたいのだろうが、何となく言葉足らずの印象を受ける。
・「電子メールが贅沢なのではない。物理的な手紙や葉書を出すということが『贅沢』なのである。」(P.87)
確かに、著者の言うとおり、時間と空間という物理的な壁を超えた電子メールと、人員や資材が必要で輸送コストもかかる普通の郵便とを比較すれば、社会全体という観点からは郵便は贅沢に見えるだろう。
しかし、著者も述べているように、電子メールのためには両サイドにデジタル処理のできる端末が必要なのだが、これが決して安くはない。21ページでバソコンの廉価化について書かれているが、これはコストパフォーマンスが良くなった(同じ値段でより高性能のバソコンが買えるようになった)だけで、10年前も現在においても、標準的なバソコンの価格は依然として20〜30万円程度であり、高額家電商品とされるエアコンより高い。一般消費者からすれば、パソコンを購入しなくてはならない電子メールの方が郵便よりはるかに贅沢なように見えないだろうか。(実際、不況の長期化でパソコンの売上は落ちてきている。)
また、電子メールも郵便も文章を書かねばならないことに変わりはない。これがある意味で「贅沢」なのだ。手紙として発信する以上、相手によって文体は変えねばならないだろうし、相手が眼前にいないから、誤字・脱字はなくし、誤解のないように意味の通じる表現にしなくてはならない。
この高額の端末と作文の必要性という電子メールの難点を簡単に克服しているものが「電話(特に携帯)」だろう。端末としての電話機は携帯電話に代表されるようにかなり安いし、通信ラインが電子メールと同じだから、時間と空間の物理的な壁をも超えている。しかも、会話ですむから、言葉使いの使い分けが必要とはいえ、文章を書く労苦はないし、何か誤りがあってもその場で訂正できる。さらに、パソコンよりはるかに操作が簡単で携帯性も高いから、パソコンを購入した人より携帯電話を買った人の方が圧倒的に多いのではないだろうか。
もちろん、著者のいう電子メールの普及を否定するものではない。デジタル技術のもつ高い加工性と電送能力、圧縮機能に加え、大量のデータのやりとりが可能だから、普及していくことは間違いなかろう。しかし、これは情報の伝達手段が1つ増えたのであって、郵便を贅沢にさせるまで至るには、通信コストの削減はもちろん、端末機の絶対的な価格低下が不可欠だと思うのである。
著者からのコメント
デジタルの優秀性が「操作性」にあることは同意していただけたと思います。 私が念頭に置いたのは、個々人の作業とかそういう観点ではなく、「産業構造全 体に占める操作性、流通性、簡便性、廉価性」などの観点で、まあこれはこれか らの技術の進歩、さらにはそれを使う人間の慣れ、それにおっしゃるように機器 の普及が前提です。 例えば最近は日銀とは郵便は交わしたことがありません。日銀が外部から入れ るメールシステムを開発したからで、「名前@boj.or.jp」でいくらでも日銀の 人と情報交換が出来てしまう。ということは、このシステムを拡大していけば、 日本の銀行業界で回覧されるかなりの量の郵便物は削減できる。 多分、我々がまだ気付いていない使い方も出てくるのだと思います。そういう 意味での、「デジタルの優位性」です。
・「デジタル処理が『簡単ではない』と思われている原因は、実はキーボードにある。」(P.87)
デシタル処理を困難にしているのはキーボードだけではない。キーボートごときは著者のいうとおり一度慣れてしまえば、どうということはなかろう。しかし、キーボードに慣れさえすれば、デジタル処理が簡単になるわけではない。中高年や老人が苦労してキーボードを克服した後に待っているのは、度重なるソフトウェアのバージョンアップである。キーボードに慣れたら、表計算やワープロ、電子メール等、各種のソフトの操作を習得しなくてはならない。しかし、彼らがそれらのソフトを自在に使えるまで慣れた頃には、新しいバージョンが発売され、操作方法が変更されている可能性がある。そして、新しい操作を再び習得する頃には、また次のバージョンアップがなされているだろう。つまり、彼らは度重なるバージョンアップをフォローしていかなくてはならず、常に新しい操作の習得に追われていくわけで、かなりの苦労が要求されるのである。(しかも、高いカネを払ったパソコンが、たちまち陳腐化していく状況の中で)
著者は、この本の中で時折、デジタル処理というかパソコンの操作が簡単であるかのような記述をしている。しかし、今どき「誰でも簡単に〜ができます。」というパソコン販売の宣伝文句を誰が信用しているだろう。それほど簡単なら、なぜ書店で多くのマニュアル本が売られ、ハードやソフトのメーカー側にサポートサービスの重要性が言われているのか。残念ながら、デシタル処理というかパソコンの操作は、現時点では普通の消費者からすれば簡単ではないのだ。先述の電子メールにしても、パソコンを買って、インターネット等に接続し、電子メールを交換できるようにするまでには、基本的な予備知識が必要だし、手間暇もかかる。ごく普通の消費者にすれば、電話や手紙の方が簡単で安価に感じるだろう。だから、「何年か後には『手紙』や『葉書』を出すという行為は、かなり贅沢な行為になっているだろう」というが、このようなことがそんなに早く実現するかどうかは疑問である。
このようないくつかの記述に多少気になる部分があるとはいえ、それらがこの本の主張をいささかも妨げるものはではない。デジタル・ネットワーク革命は、市場経済の拡大との相乗効果で、世界経済を変革させ、大きな影響を及ぼしていることは間違いない。
著者からのコメント
確かにキーボード以外にいろいろ難点はありますよね。その点は賛成です。 「中高年」「老人」にとってのソフトウエアのバージョンアップは、確かにそう いうことはあると思います。しかし、48の小生は特に困っていない。あれは年 ではなく、他の要因(^_^)(^_^)もあると思います。ですから、出来ない人 もいる、という観点で話を進めることは小生には出来なかった訳です。
第5章「一変する金融の世界」でも、デジタル・ネットワーク革命を睨んだ展開が進んでいるが、既にインターネット上では、24時間リアルタイムで為替レートを提示し、実際に取引までできるホームページさえ存在している。ロイター・モニターやテレレート等のの金融情報端末の存在すら脅かされてくるのかもしれない。
第6章の「アングロ・サクソンの復権」を読むと、ここに書かれているアングロ・サクソンの性質そのものが、この本のもう一つの柱である市場経済という体制に非常に適合しているように感じられる。しかも、そのほとんどは現在の日本にはないものである。私は個人的には、これは狩猟民族たるアングロ・サクソンと農耕民族たる日本人の性質の違いだと思っている。
農耕作業はどうしても天気や気候の影響に左右されてきたためか、日本人は気候の変化のような外部環境に対し、受け身になりがちである。
「百姓はいつも心配ばかりしていやがる。日照りが続けば、干ばつにならねえかと心配し、雨が続くと洪水にならねえかと心配する。」
映画「七人の侍」で故三船敏郎が扮した菊千代のセリフは、農耕民族たる日本人が著者のいう悲観論好き性質を象徴しているかのようである。
著者は、この日本人の悲観論は行き過ぎで、日本には優れた製造業と教育水準の高さがあると反論している。確かに、田植えのように村人総出で同一作業をすることを良しとし、均一性やある目的に常に一致協力を求められる日本人の性質は、高い品質や大量量産を必要とする製造業には適しており、日本の製造業の強さを生んだのかもしれない。
しかし、もう一つの教育水準の高さについては、この農耕民族としての特質からくるムラ社会的横並び主義の結果、日本の子供たちはほぼ同じレベルの教育を受けられ、欧米に比して国民の平均的な学力が高まったと言えよう。その反面、個性的、独創的な子供は村八分(イジメ)に会うから、いつも周囲の顔色を伺って同調していかねばならず、正に「閉塞感」漂う日本社会の縮図のようで、とても窮屈な生活を強いられている。高い教育水準の陰で少年少女にはストレスが鬱積しており、これが昨今の未成年の凶悪犯罪の増加の背景になっていると思われる。
企業社会も同様で、ちょっと他と異質の者が出てくると、「出る杭は打たれ」るばかりか、下から「足を引っ張る」ヤツまで出てくる。著者は、提言の1つに「人事・給与制度の複線化」を掲げており、これに加えて、アングロ・サクソンと同様、労働・雇用市場の柔軟性を高めなくてはならないかもしれない。しかし、そのためには、やはり横並び主義から脱却して、個性や独創性を重視し、他人と異質であることへの尊重などがやはり必要であろう。
また、著者は英語力の充実を提言の1つとしている。文化としての日本語の良さを失ってもらいたくはないが、やはりコミュニケーションの手段としての英語力を持つ必要があることは私も同意見である。しかしながら、英会話講師をしている米国人の友人は、「日本人は”PASSIVE(受け身)”で、あれこれ指示するまで黙って待っている。自分から積極的に話していくべきなのに」と嘆いていた。ここでも日本人の受け身的体質が垣間見えるのである。
著者からのコメント
私が言いたかったのは、「中高年」であろうと経済の基幹的技術が変化する中 ではある程度その技術の変化に自分を会わせていく、とそれを使っていることが 経済活動をする上では必要ではないか、という観点です。「世の中変わるのが悪 い」と行ってしまうとそこで何事も止まってしまう。日本人が農耕民族として多 くの時間を過ごしてきたことは分かりますし、それはそうだと思いますが、だか ら「異質なものへの尊重」「個性や創造性」への尊敬が全くなかったかと言えば そうではない。 おっしゃっている通り、どうも日本人は製品とかそういうものでは 独創性を認める、しかし組織の一員としての個性、独創性は認めないところがあ る。しかし、これも経済環境が規定して変わってくると思います。韓国もそうで すが、追いつめられると人間動き出すモノです。茹で蛙になる人もいるでしょう が、まあせめて我々は自ら動いて楽しい世の中を行きたいものです。
こうして見ると、著者のいうとおり、やはり「教育」が日本のフロンティアかもしれない。「スピードの経済」に挑戦するための著者の提言のうち、いくつかはその実行の前に、日本人の受け身的性質を改め、異質なものへの尊重と個性や独創性を重視して、創造力を養うような教育が必要だからである。
次回は、ゼネックス社刊、堀内昭利著、「市場の神々〜為替ディーラーの光と陰〜」を紹介します。